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一人カセットテープ

ひとりで聴いて、誰かに教えたくなる、そんな音楽

視る暴力、視られるフェティシズム:フロイドの絵

いつか絵のモデルをやってみたいと思ってるライターのnikiです。

長時間動かずただじっとしている、しかしずーっと画家に見られているなんて、

なんだかアブノーマルなシチュエーション...。

かなり興味をそそられます。

12 Rooms 12 Artists展

http://www.museum-cafe.com/images/event/38999.jpg

先日、東京ステーションギャラリーで開催中の「12 Rooms 12 Artist」という展示をみに行きました。

会場は決して大きくはないのですが、絵があり写真があり彫刻があり、バランスのいい展示でした。

今回の展示の目玉は、約30点ほど出展されたルシアン・フロイド(Lucian Freudの絵。

彼のおじいちゃんはあの、

名前を知ってるだけでちょっとインテリぶれちゃうあの、

人文学系を専攻している学生は一度は授業で耳にしたことがあるあの(くどい)、

ジークムント・フロイト(Sigmund Freudです。

精神分析というものを始めた人ですね。

家族の顔を、すみずみまでなぞる

http://www.thetimes.co.uk/tto/multimedia/archive/00261/102119731_Freud_04_261847b.jpg

調べた情報によると、ルシアン・フロイドは近親者をモデルにして絵を描くことが多かったそうです。

彼の絵には母親や兄弟がひんぱんに登場します。(上の絵はお母さんの肖像画です。)

 

不思議に思いました。

 

一体どんな気持ちで描いていたのでしょう。

 

だって、家族の絵を描く行為って、家族の全身をすみずみまで撫で回す行為に近いと思うんです。

お母さんの顔を髪の毛1本から首元に刻まれた皺まで、ゆっくりと指でなぞっていく。

それも、何時間も、何日もかけて。

 

モデルの姿を絵で表象するということは、体全体・顔全体の細部までをなぞるように観察することと一緒。

 

想像してみると、私にとっては奇妙なことに感じます。

だって今までそんなにまじまじと何時間も家族の顔や姿を経験はありませんから。

画家とモデルと、その間の視線

こんな風に考えると、画家が被写体に投げかける視線って異質なものです。

単に「見て」いるのではなく、「視て」いるわけです。

「描きたい」と思うインスピレーションは、「知りたい」という知的好奇心と同じかもしれません。

被写体の全てを知ろう、その内面にすら迫ろうという視線は、モデルに深く切り込み、覆いを剥がそうとする力も含みます。

 

それは時に暴力的です。

そんな画家の視線に晒されているモデルは何を感じるのでしょうか。

 

私が経験したいのはこの「視線の暴力」です。

私個人のマゾスティックな欲望ですね!

きっと同じ欲望を持ったHENTAIが露出狂とかになってしまうんでしょうね。

 

「視線の暴力」

「侵略的な知的好奇心」

「視線に晒されたい欲望」

芸術の根本って、めちゃくちゃエロティックな欲望かもしれません。

視線の哲学に興味ある方、人文系学科においでませ

http://book.asahi.com/clip/images/TKY201105230104.jpg

そして世の中には、この不思議な視線の存在を学術的に研究している人たちがいるのです。

大御所ミシェル・フーコーから始まり、いわゆる「視覚論」を学ぶ人たちは結構いますよ。

少し興味を持てた人は、フーコーの『監獄の誕生』でググってみてください。

フーコー パノプティコン」と検索してもいいです。

視線と視られる対象の関係、「見る」ことは暴力的な行為、ということはどういうことは、わかりやすく解説してくれているサイトはたくさんあります。

それを読んでさらに気になったら、フーコーの本を読んでください。

そしてさらに気になったら、人文学系の大学や大学院で学んでください。

 

何を隠そう、私自身も人文学科出身です。

 

「文系ってクソじゃね?」論に押しつぶされそうな文系学部ですが、やってることって結構面白いんですよ...。